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若林先生、有難うございました


ドラゴン桜が16年ぶりに復活しました。


先週末から見始め、すっかりハマってしまい、Part1の11話を一気見し、


忘れていた先生への感謝を思い出しました。


私は、高校入試の時に大学には行かず公務員になると決めていました。


それを留めてくれたインド先生(通称)が、せめて普通高校に行けと勧めてくれたのが、


Part1の龍山高校と同じレベル(偏差値40くらい)の新設の普通高校でした。


そこでは、常にトップの成績でしたが、大学入試はしないつもりでした。


経済的な理由からです。


当時のお金で恐らく夫婦共働きで20万円以下の収入しかなく、借金も抱え返済に一杯一杯で、


子供二人の学費どころもギリギリだったからです。


自分も早く稼いで家計の役に立ちたい、それには公務員が安定していて手っ取り早いと考えていたからです。


その考えを変えていただいたのが、若林先生です。


先生は私も入っていたバドミントン部の監督でもありました。


新設高校で練習もロクにしないバドミントン部は地区大会で毎年一回戦予選落ちでした。


それを、わずか2年で県大会レベルにその後1年で全国大会レベルに飛躍させたのが若林先生でした。


私は常に補欠でしたが、3年生の時に6番目のレギュラー(団体戦に出れるのは5人、つまりリザーブ)となり、


本番ではダブルス選手で試合に出て、県大会でもBst4まで進出することができました。


勉強ではなく、スポーツで壁の突破方法を教えていたのです。


ダメなチームでも他の高校の倍の練習を効果的にすれば変わることができると教えてくださったのです。


そして、先生は言いました。


「俺を信じて、新潟大学に進め。そうすれば、人生が変わる」と


現役では受かりませんでしたが、一浪して合格することができました。


(燕高校から国立大学に合格したのは40年で2人のみ)


今人生を振り返ると、これが人生のターニングポイントでした。


もし、大学に行かず公務員になっていたら、IBMでは働いておらず、一生燕市で過ごしていた。


もし、燕市で公務員をしていたら、起業することなく、定年まで勤めていた。


もし、定年まで勤めていたら、福祉事業で起業することはなかった。


今こうして福祉事業で起業できたのも若林先生のお陰です。


先生、本当に有難うございました。


この御恩は、新たな後継者を育成することでお返ししたいと思います。


大好きな笑顔


思い出すと


泣きそうです 


今も


先生 友達


わたしの明日


作ってくれたの学び舎の日々


ありがとう教えてくれましたね


「違う」って


「自由」って


こと教えてくれたんですね


「大好き」って


「幸せ」ってこと


ほら自由で


幸せです


わたしは


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